著者校正前の原稿ですので、実際の文庫とは違う個所があります。ご了承ください。
ソードジャンカー
一章：バムラ
１ ナグザルの砦
１
夕陽を浴びるなだらかな斜面に茶色の斑点が散っている。黙々と草をはんでいるのは家畜コムトの群れだ。
マイの月もそろそろ終わる。暑くなるにつれて草は青々と茂っている。
山側に連なる木柵にもたれながらその光景を見ている若者がひとり。
黒みがかった金色の髪を無雑作に短く刈り、茶色の目を落ち着きなく左右に動かしている。目はコムトたちの動きを監視しているようだが、退屈しているのか手に持った長い木の枝を手首で振り回しているのは何かの訓練のつもりだろうか。
西に視線を向け、そろそろコムトたちを移動させるかと腰を浮かした時、
「ローグ！」
若者を呼ぶ声が響いた。
ローグが振り返ると、柵の反対側からふたりの人影が歩いてきた。
典型的な西方人であるローグとは対照的に、ふたりとも黒髪に黒い瞳という典型的な東方人だ。身にまとう衣装も東方風の袖がゆったりしたものであり、裾も袖も体にぴったりした西方風の服を着たローグとは対照的だ。
男の方は漆塗りの見事な長刀を腰に差し、癖のない髪を肩まで伸ばしている。ピンと伸びた背筋は歩いていてもほとんど上下に揺れない。
同道する女性も長い髪だが、こちらは真っ直ぐに伸びた長い髪を風になびくに任せている。男の影に入ってしまうほど小柄だ。
ふたりが一緒に歩くさまは、まるで一対の夫婦人形のようだ。
「よう、シュウ」
ローグは男の方に気さくに声をかけ、女の方を見る。
「マイも来たのか」
「私が一緒で迷惑でした？」
マイが真っ直ぐな眉の下にある切れ長の目でローグをにらむ。人形のような顔立ちだが、気が強そうな声音だ。
「そんなこと言ってねーだろ」
答えながらローグは思わず目をそらす。
「話をする時はこっちを見るの」
「わかったよ」
ぶっきらぼうに答え、ローグは不承不承顔を上げた。
「相変わらずだな」
「もう長年の習性だからなぁ」
苦笑を浮かべるシュウにローグは肩をすくめて見せた。
「おまえはこれからこいつを御してくんだぜ？」
「シュウ様はローグほど手がかかりませんから」
「すでにカカア天下だな」
シュウに耳打ちするローグに言い返そうと身を乗り出して、マイは言葉を飲み込んだ。ローグが初めて見るほど真剣な顔をしていたからだ。
「もう明後日なんだな。マイの誕生日に婚礼か」
ローグが言うと、シュウがうなずいた。
「ずいぶん前から決まっていたからなかなか実感がわかない」
「ああ、五年前だったっけ、おまえたちが許嫁だってわかったのは」
ローグはそう言うと隣のマイを見て肩をすくめた。
「その後、いきなり態度が変わったもんな。女ってのは――」
「なにかしら、ローグ？」
「いや、なんでもねー」
とぼけるローグの肩にシュウが手をかけた。
「でも、ローグも変わったな」
「そうそう。二年前までは通りすがる犬までかみつきそうな目でにらんで、すぐにケンカをふっかけるし、シュウ様にもずいぶん怪我をさせてました」
非難めいた目でにらむマイから、ローグは居心地悪げに目をそらす。
「いや、あの頃は自分でもなんだかわからなかったんだ。なんていうのか、自分が自分じゃないような、自分の中にもうひとり誰かがいるような……。とにかく悪かった」
ローグがふたりに頭を下げると、マイは信じられないと目を見開いた。
「な、なんだよ？」
「ローグが自分から謝るなんて」
「だから、あの頃はだな――」
説明しようとして、ローグはまあいいやというように首を振った。
「とにかく、今謝っとかないと、次がいつかわからねーからな」
「どうして？」
ローグの言葉にマイは不思議そうに聞き返す。
「どうしてって、シュウはこれからサザマ家の家長になるんだし、おまえはその、えーっと、嫁さんだろ？ 姑にいびられて死ぬほど働かされるんだぜ。こうやって遊んでられるのは今日くらいじゃねーか？ 明日は準備で忙しいだろうし」
「そ、そうね」
少し神妙な顔になってうなずくマイに、シュウが苦笑いを浮かべた。
「母にいびられるかどうかはともかく、確かにそうだな。しばらくは気ままに家を出ることもできないだろう」
「だろ？ 俺だってちょっとは考えてんだぜ」
「成長したのね、ローグも」
マイはまるで姉のように嬉しそうに笑う。
「おう――って、バカにされてるのか？」
「そうじゃないの」
マイがどこか寂しそうな笑みを浮かべてローグを見た。
「昔は魔刀バルヴォートの話をしただけで怖くて夜に厠に行けなくなったのにね」
「いつの話だよ」
気恥ずかしそうにブツブツ文句を言う。
と、一陣の風が三人の顔をなでた。
「嵐が来るな」
シュウが西の空を見てつぶやく。
ついさっきまでは夕陽に赤く染まっていた空が、どす黒い雲に覆われていた。雲の動きは速く、目に見えるほどだ。
シュウはマイに振り向いた。
「マイ、私はローグと話がある。先に帰っていてくれ」
「わかりました。ローグ、あまり長くシュウ様を引き留めないように」
マイが釘を刺すとローグは面白くなさそうに応じた。マイは昔からこうだ。自分の方が三月遅く生まれたのに姉のように振る舞う。それはローグが幼い頃に病気がちで、体も小さかったせいだ。
「わかってるって。明後日の式には行くからな」
「当たり前でしょ」
マイはローグを真っ直ぐに見つめて当然だと微笑むと、最後にシュウに一礼して立ち去った。
「で、なんだ、話って？」
マイの背中を見送って、ローグはシュウに向き直る。
「たいしたことじゃない。ただ、少しおまえと話したくなってな」
「おかしなヤツだな。いつも話してるだろ？」
「そうなんだが……」
シュウははっきりとしない口調で答える。
幼なじみでひとつ年上のシュウがこんな話し方をするのをローグは見たことがなかった。この地域を治める豪族サザマ家の嫡男であるシュウは集落を野盗などから守るために武術に秀でている。それだけではなく、跡継ぎとして学問も礼儀作法も人の上に立つ教育を受けていた。
「らしくねーな」
ローグは力づけるように強めにシュウの肩を叩いた。
「稽古つけてくれるか？」
そう言って剣の代わりに振り回していた枝を振る。
「いや、ティグラス殿のところに寄ってくるよ」
「親父？ なんの用だ？」
「婚姻の儀に使う短刀を頼んでいたんだよ」
東方の多くの地では新郎が新婦に短刀を贈る風習がある。ここバムラは東方と西方の狭間にある緩衝地帯だが、サザマ家は東方出身なのだ。当然、しきたりも東方風だ。
「ああ、そういえばこの半年ほど鍛冶場にこもりきりで何か造ってたな。おかげでほとんど顔をあわせてねーんだ。俺は鍛冶場に近づくなって言われてるしな」
「半年も？ 私が依頼したのは先月だったが」
「他の剣だったのかな」
ローグは一瞬眉間にシワを寄せて考えたが、まあいいやとばかり肩をすくめた。
「仕事はいいのか？」
シュウが草をはんでいるコムトを示すと、ローグはやべぇとつぶやき、慌てて腰かけていた柵から飛び降りた。話し込んでいる間に草を求めてかなり遠くに行っているコムトもいる。
「とっととコムトどもを小屋に追い立ててくる。俺が帰るまで家にいろよ」
「ローグ、本当にいいんだな？」
駆け出そうとしたローグにシュウが声をかける。その表情はいつもに増して真剣だ。
「なにがだ？」とローグは振り返る。
「私とマイとの結婚だ」
「当たり前だろ。似合いだよ、おまえら」
ローグは笑った。
「そうか。なら、いいんだ」
「おかしなヤツだな」
怪訝な顔でシュウを見るローグ。
「マイはおまえのことを――」
ささやくような声で言うシュウを遮って、ローグが声を上げた。
「らしくねーぞ、シュウ！」
指を突きつけニヤッと笑う。
「俺とマイはただの幼馴染みだって。まあ、俺にお節介してくる相手がいなくなると、寂しくなるかもしれねーけどな」
ローグは笑いながら言うと、背を向けて駆け出した。
シュウはその背を複雑な顔で見送っていたが、やがてローグの家へと続いている柵に沿って歩き出した。
「くそう、降ってきやがった」
ローグは雨の中を駆けていた。
陽の落ちるのも遅いとはいえ、すでに太陽は沈み、辺りは真っ暗だ。明かりはひとつもない。叩きつけてくる雨で顔が痛いほど。足元もぬかるみ、油断すると足が抜けなくなる。そこを身軽に駆けていく。
「まいったな」
コムトはすべて牧場主の厩舎に戻したものの、雷鳴に驚いたコムトたちを鎮めるのに手を焼いて予想外に時間を食ってしまったのだ。
シュウに待っていてくれと言った手前、早く戻らないといけないのだが、さすがにこの天候では待っていないだろう。なんといっても、明後日は結婚式だ。用意もあるのだからいつまでもいるわけはない。
あのふたりが結婚という事実に複雑な感情はあった。マイには小さいな頃から相反するふたつの感情を抱いていた。引きずられるようにして遊びにかり出され、徹底的にしごかれた記憶。それは畏怖と慕情という形でローグの中に存在した。
だが、ふたりの結婚は決まっていたことだ。
そんな想いを振り払うように走り続けた。
ローグが向かっているのは一軒家だ。周囲には他に家はないため、明かりはひとつだけだ。ぼんやりと平屋建ての木造の母屋と、大きな煙突の立つ小屋が建っているのが見える。これが父ロンダルの鍛冶屋である。西方の刀剣匠として名のあるロンダル・ティグラスだが、東方の匠に弟子入りした後、一五年前にバムラに移り住んだのだ。
母屋に向かっていたローグだが、不意に足を止めた。前の生け垣に二頭の馬が留まっている。一頭は見たこともないほどでかい雄馬だ。しかも、鍛冶屋の入り口が開け放たれていた。
「客か？」
そうだとすればあまり行儀のいい客ではない。
ローグは正面を迂回して脇から接近し、壁の隙間から様子をうかがった。誰かの後ろ姿と話し声が聞こえる。ローグの知らない声だ。こんなところに来るのは村人の他は親父の客くらいだが、客がこんな恫喝の声を上げるはずはない。
「言わぬなら、外にいる者を殺す」
不意に聞こえた声にローグは身を固くする。気づかれたのだ。シュウほどではないとはいえ、狩りをする時に気配を断つことには自信があった。それを打ち砕かれた。
「入って来ねば父が死ぬぞ」
突きつけられた最後通告に舌打ちをして、ローグは土間に足を踏み入れた。
入った瞬間、剣の切先がローグの目の前で止まる。
「おまえら何だ？」
ローグは自分に剣を突きつけた相手をひるまずににらみつけた。
巨大な西方人だった。
身の丈は二ミグを二〇セグほど超え、剃髪している。その頭にも腕にも無数の傷が走っていた。齢は五〇を越えているだろうが、むき出しになった肩から先の筋肉は藁を束にして何度も組んで編んだような太さとしなやかさが見て取れた。分厚い胸は上着で包みきれず、無数の傷に混じって翼を広げた猛禽の刺青が見えている。背中にはむき出しの剣が一振り。刃の黒い異様な剣だ。ローグに突きつけている剣は腰に吊された別のものだ。
「ローグ、やめろ！ そいつはナグザルだ」
奥にある土間から叫びが飛んできた。シュウだ。
ナグザル――。
その名はローグも知っている。グラム＝ナグザル――偉大なるナグザルを名乗る、西方中原で暗躍する武装集団の首領だ。しかし、それがどうして東西の緩衝地帯であるバムラの、しかもこんな辺鄙な村にいるのか。
「いい面構えだ、小僧」
ローグを見下ろしたナグザルの傷だらけの顔に笑みが浮かんだ。厳つい顔からは意外なほど柔らかな笑みに見えた。しかし、次の瞬間、形相が変わる。
「だが、彼我の力の差を読めんようでは長くは生きられん」
言い放つやナグザルが左手を動かした。額に突きつけられていた切先が翻ってローグの左胸に突きつけられる。
ローグはまったく反応できなかった。動きに気づいた時には切先が再び額の先でぴたりと止まっていた。ナグザルはこの巨体からは想像もできない速さで剣を操ったのだ。
今の俺じゃこいつにはどうあがいても敵わない。
ローグはナグザルに飲まれてしまって動くことさえできなくなった。目だけを動かして周囲を見るしかない。
父ロンダルはシュウと共に奥の板の間に座っていた。ふたりの間には囲炉裏があり、鉄瓶が湯気を立てていた。
土間に近いのはロンダルで、どっかりと腰を下ろしたままで動いた様子はない。それどころか動けそうもなかった。この一週ばかり鍛冶場にこもって姿を見せていなかったロンダルは、ローグが別人かと思うほど痩せこけ、覇気のない姿だったのだ。
シュウは囲炉裏の奥で片膝立ちになって動きを止めていた。腰には愛刀の朧月がある。シュウが容易に斬りかかれないというだけでも、ナグザルの力がいかに強いかわかる。
その時、ナグザルが土間の作業台に置かれてあった刀に気づいた。研磨を終えたばかりの真新しい一振りだ。
西方では剣が多く、東方では刀が多い。剣とは諸刃、すなわち両側に刃がついたものを指す。刀は多くが反りがあり、片刃だ。実際には外観だけではなく、構造にも多くの違いがある。
そこにあったのは東方風の片刃の剣だが、幅が広い独特の形だ。何よりも異様なほど薄く、まるで紙のようだ。
「それに触れるな！」
唐突にロンダルが声を上げて立ち上がり、土間に下りようとした。さっきまでの力のない姿からは想像もできない素早い動き。
しかし、次の瞬間、ナグザルの陰から飛び出してきた小柄な影に首を捕まえられ、押さえつけられていた。
「ゾンベク、手荒にするな」
ナグザルは手下の男に言うと、右手で刀をつかんだ。その瞬間、目を見開いて唸る。
「魂物を打ったか！」
その言葉にローグは愕然とした。
そんな重要なことさえ知らされていなかったという驚き。そして、不信、心配。それらがない交ぜになって父ロンダルを凝視する。
ナグザルは刀のバランスを確かめるために振り、刃を透かすようにして見て唸る。
「おもしろい形だが、いい刀だ。さすが名匠と呼ばれることはある。どんな魂を込めたのだ？」
ナグザルは刀の根本に刻まれた銘に目を向けた。
「魂斬――ソウルリッパーというところか」
東方の文字を容易く読みこなし、ナグザルはその刀を部下に渡そうとして視線を動かした。
その瞬間、奥の板の間で身構えていたシュウが飛び出した。
シュウは目の前で湯気を立てている鉄瓶を蹴り上げ、ナグザルに向かって飛ばした。熱湯がナグザルに向かって飛び散り、空中で真っ白な蒸気の翼を広げる。
大きく踏み出したシュウは腰の柄に手をかけ、左の親指で鯉口を切ると一気に抜き放った。
白い閃光が蒸気を真っ二つに斬る。
次の瞬間、小屋の中は霧に覆われていた。視界が一気に白く染まる。
「水の業物か」
ナグザルが唸る。
こいつはシュウがくれた好機だ。
ローグは腰を落としてナグザルから離れ、逃げようとした。しかし、一瞬の逡巡が生じる。父親をそのままにして人質に取られれば、また同じことの繰り返しになる。
土間に行こうと身を翻す。
その時、濃い霧の中に銀光が閃く。
シュウの朧月の斬撃。
しかし、それが肉を断つ音はついに聞かれなかった。代わりに風を斬る鋭い音がもう一つ。
そして、霧は瞬く間に消え失せた。
ローグは信じられない光景を目にした。シュウが朧月を振り下ろした姿のまま、彫像のように固まっていた。それがどうとばかりに倒れ伏す。
「愚かな……」
ナグザルが深い紺色の瞳を目を伏せると、刃に目を移し、唸った。
「手応えがないとはな。ふむ、おもしろい」
シュウを斬ったのはロンダルが鍛えた新しい刀だった。
刃を確かめるナグザルの脇をすり抜けて駆け寄り、ローグはシュウを抱き起こした。出血も傷もないというのに、すでに息をしていない。目は限界まで見開かれたまま。
「てめぇ……、よくもシュウをっ！」
ローグはナグザルをにらみつけたが、ナグザルはシュウを斬った刀をローグに突きつけるとロンダルに向けて静かに唸った。
「まだ教えるつもりはないか？」
「やめろっ！」
ゾンベクに押さえつけられたままのロンダルが怒声を上げた。
「バルヴォートをどこに隠した？ 言わねば息子も斬る！」
ナグザルが吼える。
呪いの刀か？
マイにからかわれたばかりのローグは耳を疑った。
二〇年も前に、とある刀剣匠が鍛えた刀。しかし、念を入れすぎたのか、邪念に取り憑かれたのか。邪悪な刀の力に操られた匠は妻を斬り殺し、周辺の人々を惨殺し、最後には自らを切り刻んだ。その刀の銘がバルヴォートという。
普通、こういった曰くのある得物は代々受け継がれてきたものばかりだ。だから、わずか二〇年前にできた刀の話などただの与太話か、親が言うことを聞かない子供に話して聞かせるような怖い話だと思っていた。
ローグは目だけを動かして上を見た。
額に突きつけられた剣は微動だにしない。逃げる動きをした途端、斬られるだろう。この巨漢にためらいなどない。
「あの刀はおまえたちが持っていても意味のないものだ。我に渡せ」
ナグザルが太い左腕をロンダルに突き出し、音を立てて握りしめた。
土間から一段上がった板の間にいるロンダルはゾンベクに馬乗りになられたまま、拳を握りしめ、声を振り絞る。
「バルヴォートのありかは――」
「さあ、とっとと言え」
ゾンベクが黒い短剣を突きつける。
ロンダルはナグザルを真っ直ぐに見据えて言い放った。
「どうあっても言えぬ！」
「そうか」
吼えるように応じると、ナグザルはローグに突きつけた長刀を真っ直ぐに押し込んだ。
ローグは動けない。まるで魅入られたように切先が自分に向かってくるのを見るしかできなかった。
冷たい鋼が眉間に突っ込まれる。バターにナイフを突き刺したように抵抗もなく食い込んでいく。
そして、ナグザルは太い腕の筋肉に物を言わせて強引に長剣を振り下ろした。
ローグの頭に突っ込まれた刃は脳から胸、そして、腹に向かっていく。冷たい感覚が体の内側を駆け抜けていった。
そして、灼熱の棒が脳天に突っ込まれたような激痛が押し寄せてきた。しかし、ローグには叫ぶ口などすでになかった。
剣に斬られたローグは凍りついたように硬直し、見る見るうちに表情が蒼く、生気を失っていく。悲鳴を上げたくても上げられないのか、口は半開きのまま。
興味深そうに見ていたナグザルは見飽きたというように一気に剣を振り下ろした。
斬られたローグは一滴の血すら流さずに、シュウの死体の隣りに仰向けに倒れた。
「ローグ！」
ロンダルは押さえつけていたゾンベクをはねのけると、ローグに駆け寄ろうとした。
「こいつっ!? ジジイだと思ってりゃ！」
ゾンベクがとっさにロンダルを追って組み伏せようとするが、ロンダルの思いのほか強い力に手こずった。金槌を振るって鍛えられた膂力はこの年齢でも衰えていなかったのだ。
もつれ合ううちに、ゾンベクの握る黒い短剣がロンダルの脇腹にもぐり込んだ。
「くそっ！」
肉に刺さった感触を感じ取り、ゾンベクが舌打ちをした。
傷は浅いはずだ。しかし、見る見るうちに服がどす黒い血に染まり、床に血だまりを作っていく。
「ローグ、おまえは、ここで死んでは、ならん……」
ロンダルは倒れている息子の姿を凝視しながらつぶやくと、土間に突っ伏した。異常とも思えるほど大量の血があふれ出し、床から土間に川のように流れ落ちていく。
「くたばりやがった！」
ゾンベクがロンダルの体を乱暴にひっくり返して舌打ちする。
「すいやせん。しくじりました」
ゾンベクが頭を下げるが、ナグザルは首を振った。
「どのみち何をしても吐かなかったろう、この男は」
「それにしても、もったいないことしちまいました。こいつほどの刀剣匠ならこき使って剣を造らせりゃいい得物ができたってのに」
ゾンベクは吐き捨てる。
「魂物を打ち終えた匠に、もはやそんな力はない」
「そういうもんですかい？」
「ゾンベクよ、刀剣を鍛えるとは刀剣に自らの命を注ぎ込むことなのだ。特に東方の手法はな。その中で魂物を鍛えるとは匠のすべてを与えるに等しい。だからこそ、唯一無比であり、一万の兵に匹敵するほど強力なのだ」
ナグザルは部下にそう諭すと、長剣を抱えて身を翻した。
「バルボートを探すぞ」
最後に死骸を一瞥した巨漢の目は一瞬哀れみのような色をたたえた。だが、それを引きはがすように視線を戻すと、叩きつけてくる風雨の中に出ていった。
天井が右に左に落ち着きなく揺れ、そして、回っていた。
視界は薄暗く、狭い。まるで目隠しをされている隙間から見ているような感覚。しかし、目隠しはない。
呻きながら上体を起こした瞬間、猛烈な嘔吐感が襲ってきた。耐えられずに体をひねって脇に吐く。ガキの頃、無理して大量の酒を呑んだ翌朝に感じた以上のひどい気分だ。
「くそっ、なんだって……」
意識をはっきりさせようと首を振った瞬間、相変わらずグラグラと揺れる視界に飛び込んできたものに息を飲む。
「シュウ!?」
吐き気は収まらず、ぐるぐると回る視界の中で這いずってシュウの体に向かっていく。
シュウの体までわずか数十セグ。その距離が何倍にも感じられる。自分の体ではないような感覚で手も足も思い通りに動いてくれない。
「シュウ！ 起きろ!!」
服をつかんで揺さぶるが反応はない。胸の上に耳を押しつける。激しい耳鳴りにかき消されたのかもしれないが、シュウの鼓動は聞き取れない。
脈を確かめようと喉に手を当てた瞬間、異変は起こった。ドクンと音がしたように鼓動が大きくなり、再びひどい吐き気とめまいが襲ってきた。さらにシュウに触れた手が瞬時に熱を持った。同時に何かが腕を伝って出て行ったような――まるで子供の頃に遊んだ水鉄砲の水のようにほとばしったような感覚がした。恐怖に襲われて両手を全身の力を込めて引きはがし、床に尻餅をついた。
「なんなんだ!?」
両手のひらを凝視したが、火傷をしたわけでも水が出ている様子もない。
改めて見るまでもなくシュウは死んでいる。そう悟って最初に浮かんだのはマイの顔だった。明後日には一緒になるはずだったのに、あいつはどんな顔をするのか。
「くそーっ！」
叫びを上げながら何度も土間に拳を叩きつける。痛みが意識をはっきりさせたのか、吐き気とめまいはようやく収まってきた。
膝をつき、恐る恐る立ち上がると、目に飛び込んできたのは板の間から土間に落ちる寸前でうつぶせに突っ伏したロンダルの姿だった。
「親父!?」
全身の血が流れ出したような量が土間に大きな池を作り、ほとんどが乾いている。確かめるまでもなく死んでいた。
「ちくしょう！」
血だまりの脇にガックリと膝をつき、踏み固められた硬い土にもう一度拳を叩きつけた。力が入らない。動く気力がなくなっていた。怒りがわき上がってくるだけの力がない。しかし、逆に冷静に考える余裕が少しだけできた。
「ちょっと待て……」
つぶやき、ローグは眉間にシワを寄せた。恐る恐る手を額に伸ばしていく。ナグザルがロンダルの鍛えた魂物で自分を斬ったのだ。
指先で傷を探る。しかし、何もない。
「俺も斬られたよな？」
シュウが斬られたのは覚えている。同じ刀で斬られたはずだ。つぶやくと、刃が頭に突き刺さった時の感触が蘇った。思わず顔をしかめる。
「どうなってんだ……？」
倒れたままのシュウの体に視線を向ける。
刃が走り抜けたはずの胴体は無傷だ。確かに着物は斬られているというのに。あの刀は親父が昨年から昨日まで鍛えていた物だ。ナグザルの言葉を信じれば魂物だという。しかし、いったい、どんな念を込めていたのか、ロンダルからは教えてもらえなかった。
刀剣匠は刀剣を鍛える際、念を込める。匠の間では魂と呼ばれ、その作業を魂込めという。それによって刀剣の力が決まるのだ。魂物はその中でも最高の一振りである。
しかし、ローグは刀剣匠ではない。父も息子に跡を継がせようとは思っていなかったのだ。それどころか遠ざけようとしていた節すらある。
何が起こったのか、ローグには見当もつかなかった。だが、ひとつだけ明らかなことはある。
「ナグザルの野郎……」
脳裏に立ち向かうなど無謀以外のなにものでもない巨大な壁のような姿が浮かぶ。
ギリッとかみしめた歯を軋らせ、拳を握るとすっくと立ち上がった。
「ふたりを殺られて、このままやられっ放しでいられっかよ！」
再びわき起こってきた怒りにまかせて叫ぶ。囲炉裏の壁に掛けてあった刀と剣二振りを取り外し、シュウの手から朧月を取り、腰の鞘を抜いて収める。
「おまえの刀も借りるぞ。敵を討ってやるからな」
最後にそうつぶやいて目を閉じる。
どう考えても自分があのナグザルに勝てるとは思えない。そんな技量も経験もないのはわかっている。しかし、やるしかない。
「すまん、親父、シュウ！ 墓は後で造ってやるからな!!」
一声叫ぶと、ローグは駆け出した。
嵐はまだ止みそうもない。
２
「おい、門を開けろ！」
陽が西の山並みにかかった頃、ローグは目の前にそびえる門に向かって声を張り上げていた。 東方と西方に挟まれたバムラの南を東西に走るキナ山脈の麓である。その湾曲した崖にすっぽりと収まる形に砦が築かれていた。丸太を立てて柵をなし、そこに騎馬が並んで通れるくらいの門が造られていた。頑丈な扉は閉ざされている。門の左右には見張りの塔があるが、人の姿は見えない。
ローグの姿は異様なものだった。
ロンダルの鍛冶場から持ってきた剣の他に、母屋にあった剣も加えて計六振り。腰と肩に回した革帯に収まっている。肩から柄がふたつ伸び、左右の腰にもふたつずつ。シュウの形見である朧月は右腰だ。さらに腰の後ろにはナイフが数本刺してある。重装備だが、鎧の類はまったくない。身を守ることなど考えていない。
ナグザルの襲撃があった日から二日。ローグはナグザルの馬の後を追い、途中の民家で話を聞き、ようやくこの場所を探し当てた。
「おい！ 聞こえてんのか!?」
返答がないのにいらだったローグは声を荒らげた。
「やかましい！」
見張り台からようやく叫びが返ってきた。同時にボウッと橙色の炎が揺らぐ。どうやら夜に備えて松明を用意していたようだ。
「小僧、ここがどこかわかってんだろうな？」
「ナグザルの砦だろ。入れろ！」
門から返ってきた答えに対して、ローグは尊大に言い放った。
途端、複数の笑いが起こる。
「仲間に入れて欲しいのか？ だが、おまえみたいなヒヨッコにゃ用はねぇ！」
「こっちもてめえみたいな下っ端にゃ用はねぇんだよ！ 入れろってのは仲間に入れろってことじゃねぇ。中に入れろっつってんだ！」
ローグは叫び返すと、左腰に吊した剣に手をかけた。鍛冶場にここ数年置きっぱなしになっていた物だ。気に入らなかったのか、それとも依頼人が取りに来なかったのかはわからないが、優物のようだ。
俺に使えるのか？
自問する。
剣技はシュウに教わっただけだ。シュウは家畜を狙ってくるルートなどの肉食獣や兵士崩れの野盗相手に闘ったことがあるが、ローグにはそんな経験はない。シュウはローグが筋が良いとは言ったが、実戦で使えるほどなのかどうかはわからない。まして、優物や業物の力を使いこなせるかどうかとなると皆目見当もつかない。
だが――。
「やるしかねぇだろうがっ！」
ローグは柄に力を込めると、一気に抜き放った。
その瞬間、腕にしびれるような感覚が走った。
こいつは風の力を込めた優物だ。
理由もなく、そんな確信がわき起こる。
刀剣のみならず、匠の造り出すものには階級がある。匠の弟子が造る平物から始まって、優物、業物、そして、魂物だ。匠が込める魂の強さや量、性質によって、その持つ力は千差万別。それによって効果もまったく違う。
この剣がどんな力を持っているのか。それすらわからないまま、ローグは両手で剣を上段に構えると、門に向かって一気に振り下ろした。
腕のしびれるような感覚が大きくなったかと思うと、それが刃に向かって移動する。そして、それが前方に向かって放たれた。意識まで一緒に引っ張られてしまいそうな勢いに、ローグは必至に耐えた。
振り下ろした剣の切先を地面に触れる寸前で止める。刃に浮かぶ刃文には、かすかに緑っぽい光が走っていた。
そして、呆然とした顔でつぶやく。
「ウソだろ……」
固く閉ざされていた頑丈な扉は真っ二つにへし折れ、内側に向かって開いていた。まるで巨人が体当たりしたようだ。見張りの塔も門と一緒に傾き、上にいた数人は衝撃で吹っ飛ばされたのか姿がない。
「優物でこの力かよ……」
ローグは呆けたように立ちつくしていたが、砦の内部から慌ただしく叫びかわす声が聞こえてくると次第に歓喜がわき上がってきた。
「いけるぜ、俺！」
まるで剣の力が体に流れ込んできたように自信がわいてきた。
雄叫びを発しながら剣を構えて走り出す。
一番近い建物から数人の男たちが駆け出してきた。そこに駆け込んだローグが容赦なく剣を振るう。
薙ぎ払われた剣が生み出すのは衝撃を伴った突風。駆けてきた男たち四人が腹にまともに風を受けて体をくの字に折った。そのまま建物に向かって押し返される。四人は柱に叩きつけられてぐったりとした。
「なんだ、こいつ!?」
「ランドゥさんを呼べ！」
慌ただしく叫び声が駆け去っていく。
「ナグザルはどこだっ!?」
逃げる相手にはかまわず、ローグは声を張り上げ、砦の奥に向かう。
砦は想像よりもかなり広かった。一〇戸ほどの建物が内周に沿って建ち並び、中央は訓練場になっているようだ。倉庫や厩舎もあり、小さな村といってもいい。
「なんだ？ 騒々しい」
ひときわ大きな建物から大柄な男がのっそりと姿を現した。煙突の太さからすれば食堂なのだろう。口の中に食い物を入れてくちゃくちゃと噛みながら、向かってきたローグをにらむ。
「ザコに用はねぇ！ ナグザルを出せ!!」
ローグが叫ぶと、長い顔の男は口に入れていたものを吐き出した。肉についていた骨だ。かみ砕いて髄を啜っていたらしい。
「俺はこの砦を預かるレンド・ランドゥだ」
「この砦ってことは他にも砦があるのか？」
ランドゥと名乗った男はローグの無知を笑い飛ばした。
「ナグザル様をケチな野盗と一緒に思っていたか？ この砦は幾つもあるうちのひとつにすぎんわ」
「ナグザルはここにいないのか？」
「おられんな」
「昨日、ここに戻ってきたはずだ。どこに行った？」
「知りたければ俺を倒すんだな」
「てめえらみんなまとめて冥界に送ってやるぜ！」
「威勢だけはいいな。だが、俺のダウラハームに敵うか？」
ランドゥは脇に抱えていた得物を持ち上げた。
相手はローグよりも一〇セグ近く長身だが、得物は石突きを地面に下ろすとさらに長く、全長二ミグはあるだろう。そして、長い柄の先端には金属の塊が載っていた。一方は下向きに曲がった円錐状、もう一方は直方体で平らな面がローグに向いている。
巨大な鉄鎚である。
「臆したか」
動きを止めたローグを見て、ランドゥが吼える。
この時、ローグにはランドゥが見えていなかった。いや、正確には目の前の光景に重なって別の光景が見えたのだ。
何度も瞬きをして目をこする。
ランドゥの体に重なって、自分が人を斬ったような光景が見えた。それだけではない。腕にもしっかりとした感覚――肉に食い込んだ刃から伝わってきた衝撃が感じられたのだ。
初めての肉を断つ感覚に思わずビクッと体を震わせる。
「おいおい、どうしたよ？ びびったのか？」
ローグの様子を見て周りを取り囲んだ男たちから嘲り笑いが起こる。
「やかましいっ！」
怒鳴りながら剣を振ると突風が周囲に飛んだ。吹き飛ばされる男たちの中に、平然と立っているのはランドゥただひとり。
「ほう……」
ランドゥは鉄鎚を突き出して風を避け、ローグをおもしろそうに見た。
「面白い使い方をするな。だが、このダウラハームの前に立ったことを後悔するんだな」
ランドゥは鉄鎚を頭上高々とかざした。
「粉砕せよ！」
裂帛の気合い。
ランドゥの持ったダウラハームの柄を黄色い光が走ると同時に唸りを発した。
空気がビィンと震える。目に見えない何かが鉄鎚とランドゥを包み込んだ。
こいつは業物の力だ。
やばいと感じるや、ローグはとっさに身を低くして飛び退いた。建物の前で体をかばうように剣を構える。
ランドゥはローグを追って体をひねりながらダウラハームを振り下ろした。
鉄鎚が食堂前の地面に激突した瞬間、地面がうねった。まるで波のように地面が動き、ローグに向かってきた。
「どわっ!?」
腰までの高さになった波が押し寄せ、ローグにぶつかる。
体の前に構えた剣に当たった途端、押し返すような力が生じた。そのためにローグの体には衝撃は達しなかった。
ローグを通り抜けた波は食堂に達し、建物はまるで持ち上げられたように浮き上がり、地面に叩きつけられる。ドンッと衝撃が伝わったかと思うと、食堂の柱がへし折れ、屋根が崩れ落ちた。
「無茶苦茶しやがる！」
倒れてきた柱を剣が生み出す風で弾き飛ばそうとしたローグだが、剣はまったく反応しなかった。慌てて飛びのいた直後、柱はローグのいたところに倒れてきた。
「なんだってんだよ!?」
冷や汗をかきながら片膝立ちで起き上がったローグの目の前にランドゥが立っていた。
「耐えたか。しかし、もう無理のようだな」
ランドゥの哀れむような視線にローグは自分の剣を見た。持っていた剣はボロボロに刃が欠け、使い物にならなくなっていた。
「土の業物相手じゃ風の優物は不利なのか……」
ローグは立ち上がると、長剣を倒れた柱に叩きつけて真ん中からへし折った。
一瞬、周囲の空気が凍りついた。余裕ある態度を見せていたランドゥでさえも動きを止めてローグを凝視する。
「き、気でも違ったかっ!?」
遠巻きにしていた男たちからは悲鳴が上がった。
「優物なら鍛え直せば力が戻るんだぞ！」
「だから、おまえらに渡せねーんだよ！」
ローグは叫び返しながら右の腰から新たな剣を抜き放った。
左手で抜いた剣はローグの腕を再び震わせた。鼓動にあわせて何かが伝わってくる感覚。それに力を得て、ランドゥに向かって剣を突きつける。
「ナグザルがどこに行ったか吐いてもらうぞ！」
そこに呆れたような声が割って入った。
「なんでぇこのざまはよぅ!?」
門の方からやってきた数人の集団だ。その先頭に立つ小柄な相手がランドゥに言ったのだ。
聞き覚えがある声にローグは相手の顔とランドゥが同時に見える位置に移動する。
「ゾンベク、帰ったか。こいつが討ち入りしてきた」
「なにぃ？」
ゾンベクと呼ばれた男は手に持った投光器をローグに向ける。ランプの光をラッパ状の金属筒で集め、前方に向ける装置だ。橙色の光がローグの顔を照らす。
その途端、ゾンベクの顔が化け物でも見たように恐怖に歪んだ。
「お、おめえ……」
息を飲みそこなったように声が出ていない。
「どうした？」とランドゥが怪訝そうに訊く。
「死んだはずだ……」
ゾンベクはようやく震える声でつぶやいた。
「ナグザル様がおめえをざっくりと殺ったはずだ――」
「こいつをか？」
ランドゥがローグに得物を突きつけながら訊く。
「ああ、そうとも！ 忘れるはずもねぇ。こいつはティグラスのガキだ」
「ナグザル様があの剣を探しに行った時か？」
「そうだ！ オレはこの目で見たんだよ!! こいつがくたばるのをな！」
真っ青な顔を奮い立たせるように叫びを絞り出すゾンベク。
父親を押さえつけた小男を思い出し、ローグが吐き捨てる。
「てめえ、あの時のチビか」
「今なんつったよ？」
たった今まで震えていたゾンベクの声色が変わった。
「チビだ」
ローグの返答に周囲にいた連中が明らかに動揺し始めた。刺激しないようにじりじりと離れ始める。
「単純な事実だろ。俺より二〇セグは低いんだぜ」
さらにとどめを刺すようにローグが手のひらを広げてその差を示すと、男たちは声にならない悲鳴を飲み込んでさらに距離を空けた。いつの間にかローグの周りにいるのはランドゥとゾンベクだけになっていた。
「死にたいなら殺してやるぜ。今度こそ完璧になぁ！」
ゾンベクは唇を歪めて下卑た笑いを浮かべながらローグを見上げる。
「おい、チビ。ナグザルはどこに行った？」
ローグはあくまでも挑発的に言い放つ。
「知りたけりゃオレを倒すんだな。いつまでその生意気な面でへらへらしてられるか見物だぜ。オレのダムディールを食らってもそんな顔してられたら褒めてやるぜ」
ゾンベクはそう言って短剣を抜き放った。
闇に溶け込むような黒い刀身を見た途端、ローグは背筋に冷たいものが走り抜けるのを感じた。刃に込められた邪念がにじみ出してくるのが見えたような気さえする。
「禍物か、そいつは……。初めて見たぜ」
ローグがこわばった顔で吐き捨てる。
「よくわかったな。おまえの父ちゃんはこいつで逝っちまったんだぜ！」
耳障りな笑い声を上げ、ゾンベクは黒い刃を突きつける。
「今、何て言った？」
ローグの表情が変わる。
「ちょいと刺したら血が止まらずに逝っちまったんだよ。こいつは人間の血を残らず絞り出したくてたまらねぇんだ」
「てめぇが……」
ローグの拳が白くなるほど握りしめられた。板の間でうつぶせに倒れていたロンダルの最期の姿が脳裏に浮かんだ。
「父ちゃんに会いたいだろ？ 今すぐ会わせてやるぜ。感謝しな」
ゾンベクがひきつった笑いを上げるのをローグはにらみつける。
「禍物は持ち主の心まで犯すっていうが、てめぇはすでに腐ってるみたいだな」
「ほざいてろよ。殺っちまえや」
ゾンベクは背後にいるはずの部下に顎をしゃくった。しかし、返事はない。いらだたしげに振り返ったゾンベクは一〇ミグ以上離れているのを目にして甲高い叫びを上げた。
「てめえら、ぶっ殺すぞ！」
「部下にずいぶん好かれてるじゃないか」
笑いを浮かべるローグにゾンベクの顔がさらに真っ赤になった。
「先におめぇを殺す！」
叫んだゾンベクはローグに向かって跳び出し、短剣を突き出した。刃渡り三〇セグの刃が真っ直ぐにローグの胸元に伸びてくる。
毒々しい黒い切先が迫ってきた瞬間、怖気と憤怒がこみ上げてきた。背筋が凍りつくような恐怖と、父親を殺した得物だという怒り。
右足を引いて体を開き、刃をかわしながら長剣を斬り下ろす。吸い込まれるように突っ込んできた短剣の半ばを垂直に叩いた。
が、甲高い音と共に振り下ろしたローグの長剣は半分の長さになっていた。
「折れやがったぁ!?」
とっさに飛びすさって短剣から逃れ、自分の剣を見る。
「禍物と侮ったかよ！ 優物程度じゃこのダムディールにゃ敵わねぇぜ」
ゾンベクは黒い短剣を右に左に持ち替えながらにじり寄ってきた。
「死ねや！」
ザンベクが黒い刃を薙ぎ払う。
折れた剣をゾンベクに投げつけながら次の得物を抜こうとシュウの形見の朧月に手をかけた時、ゾンベクの赤ら顔に重なって、またも別の光景が見えた。
「またかよっ!?」
視界の邪魔だと手で追い払おうとするが無駄。
見覚えのある服装をした金髪の男が腰の剣に手をかけている。背中には二振りの剣。男の前と左に戦士がひとりずつ剣を突きつけている。斜め後ろから見下ろしたような光景だ。
ちょっと待て。
ローグは気づいた。
これは俺だ。誰かが俺を見ている光景を俺が見ているんだ。
その方向を振り向いた時、ローグは愕然として目を見開いた。
屋根の上で身を低くして、こちらをうかがっているのは忘れるはずのない人物だったのだ。
その時、動きを止めたローグの左にいた男が斬りかかってきた。
ローグが振り返った時、男は剣を振り上げて迫っていた。
間に合わねぇっ!?
覚悟を決めた瞬間、目の前の男は動きを止めた。頭頂から股間まで朱の線が走り、何かが落ちる音がした。
男は硬直したまま、真っ二つに分かれた。血を噴水のようにあちこちから噴き出しながら左右に傾き、倒れる。
その向こう側には剣を振り下ろした男の姿。
「シュウ!?」
思わずローグが声が上げた。
そこに立つのはナグザルに斬られ、死んだはずの友人だったのだ。
「生きてたのか！ こいつを受け取れ!!」
ローグは朧月を鞘ごと引き抜き、投げた。
朧月を無雑作に左手でつかんだシュウがローグに右手の剣を突きつける。
「おまえ、何者だ？」
突きつけられた剣以上に、いつもからは考えられない乱暴な言葉づかいに、ローグはぽかんと口を開けた。
「お、おい、シュウ？」
しかし、シュウはローグの言葉に押し被せて叫びを上げた。
「俺がローグだ。おまえは何者だ？」
「な、何言ってんだ？ 冗談にしちゃ――」
面白くないと言おうとしたローグだが、シュウの放つむき出しの殺気に口を閉ざした。今にも朧月を抜き放って斬りつけてきてもおかしくない。
その緊張感を破ったのはゾンベクだった。
「て、てめえも生き返りやがったのか!?」
シュウの顔に投光器の光を当て、ゾンベクが悲鳴じみた叫びを上げる。
「なんなんだぁ、てめらは？ 殺されても死なねぇのか？」
「やかましい！ こいつの前におまえらを殺る」
シュウが長剣をローグに投げつけ、朧月を抜き放った。ぬめったような刀身があらわになる。
こいつはシュウじゃない。
ローグはそう感じた。どうなっているのかわからないが、このシュウの姿をした男がシュウではないのだけはわかった。どちらかといえばローグに近い。
「ああ、とにかく今はこいつらを倒すぞ！」
ローグは三振り目の剣を構えた。
以下続く……