著者校正前の原稿ですので、実際の文庫とは違う個所があります。ご了承ください。
《ブラッドフレイム１》紅き天使の舞う時
序章：紅き邂逅
１
血だ。
見た瞬間、少年はそう思った。
全身に鮮血を浴びた壮絶な姿。
そんな人が片膝をついて今にも倒れそうな姿勢でたたずんでいた。背後に真っ赤な夕陽をいただき、壮絶な一枚の絵のようだった。
そこは村と外とを隔てる境。一歩踏み出せば命の保証はできない区域への入口。
収まりの悪いクセッ毛の少年は、はれて血のにじんだ唇を押さえながら、呆然とその光景を見つめていた。
と、ぐらりと人影が揺れた。
我に返った少年は思わず駆け出していた。恐ろしいと思っていた境を越えることに不思議とためらいはなかった。
が、鋭い声が少年の足を止めた。
「来るな……」
凛とした声だったが、聞き違えようがない。女性の声だった。
「でも、ケガしてるんじゃ？」
少年の声はまだ幼さを残している。
「違う……」
歯を食いしばって声を絞り出した直後、少年の前に深紅の女性は倒れ落ちた。
「だ、大丈夫っ!?」
少年は思わず駆け寄り、そこでようやく気づいた。
鮮血と思ったのは、女性が着ている服だった。見たこともない鮮やかな紅のコート。革のように見えたが、光沢がある材質で、裾は足首まで達する長さ。女性が着るには大きすぎるような気さえする。
その脇には少年よりも大きな箱のようなもの。取っ手があるところを見ると、手でつかむのだろうか。金属製らしい。
少年はつかんでみたが、ビクともしない。こんなものをこの女性はひとりで持ってきたのだろうか。
「どうしよう？」
少年は頼りなく周りを見回し、ふとうつぶせになった女性の顔を見た。
少年の息が止まった。
こんな細い顔は初めてだった。華奢というのとはちょっと違う。しかし、村の女たちには見られない切れそうな顔立ちだ。
そう思ってみれば、確かに不思議なコートの下にある体は見たこともないほど細く、長かった。村の大人の男たちよりも背が高いかもしれない。
だが、力強さは感じられないし、それと荷物の重さがまったく釣り合っていない。
いや、そんなことなど少年にとってはどうでもよかった。
少年はまるで魅入られたように女性の顔から目をそらせなくなっていた。
見たこともないほど綺麗な女の人――。
少年の目にはそう映った。
吸い寄せられるほど魅入られてしまうなんてことがあるとは、少年には思いも寄らない。
こうして――村はずれの境で、少年は運命の邂逅を果たしたのである。
＊
「おい、サウヴァ！」
翌日の早朝、少年の背後から居丈高な声がかけられた。
収まりの悪い金色の髪の毛をくしゃくしゃにした少年は、振り向く前に内心で舌打ちをした。
ちぇっ、ブリュだ。
サウヴァと呼ばれた少年は少しはれの引いた唇に手を当てて顔をしかめた。
振り向くと、村長の孫ブリュが取り巻き連中を引き連れて、尊大な態度でサウヴァをにらみつけていた。
大柄な少年だ。いかにも力自慢というように袖をまくり上げている。確かに、サウヴァの腕の太さの倍はありそうだ。
「よそ者を助けたんだってな？」
とぼけても仕方がない。ヤンネの村は小さい。噂はすぐに広がるのだ。
「うん」と小さくうなずく。
「困るなぁ」
「何が？」
「おまえももう一四なんだろ？ 村の安全ってものを考えてもらわないとな」
ふたつ上のブリュは大人びた言い方をした。サウヴァが答えないでいると、言い含めるように続ける。
「勝手によそ者を村に入れられたら困るって言ってんだよ」
「放っておけないだろ。それに――」
意識しないのに口が勝手に言いよどんでしまった。
「それに何だよ？」
「何でもない」
サウヴァは首を振った。綺麗な女の人だったなんて言える訳がない。
「何か隠してるな？」
取り巻きのひとりがニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。背の低いヤニクは悪知恵ばかり働くヤツだ。
「何かもらったんだろ？」
「ホントか、おい？」
ブリュの顔色が変わった。
「そうじゃないよ」
単純なヤツだと思いながら、サウヴァは首を振った。
「なら、なんだ？ 怪しいぞ」
「何でもないったら！」
「言えよ。おい」
ブリュが拳を固めて一歩前に出てきた。
また殴られる。
考えた途端、サウヴァの体は硬くなって動けなくなった。
その瞬間、ガツンと両肩を思いっきり突き飛ばされた。体が泳ぎ、そこへさらに拳が来た。頬に熱い痛みが襲いかかる。
「おい、言えよ。言いたくなるようにして欲しいのか？」
倒れないように背中を支えてブリュが言った次の瞬間、
「やめなさいよ、あんたたち！」
甲高い大きな声が響き渡った。
ブリュはさっきのサウヴァのように振り返る前に顔をしかめた。それでも声だけは威勢良く言う。
「何だよ、カリシャ？」
「寄ってたかってみっともないったら！」
ピシャリと言ったのはサウヴァと同い年の女の子だ。サウヴァより背が高く、ブリュとほとんど同じくらいある。薄茶色の髪を肩まで伸ばして後ろで結わえているため、前から見れば男の子といっても通るくらいだ。
「サヴァを離しなさいよ」
カリシャが言うと、まず取り巻き連中がサウヴァから離れ、それからブリュが不承不承肩に回した腕をはずした。
「遊んでただけだぜ。そう怒るなよ」
なだめるように言うブリュをじろりとにらむカリシャ。
「遊びたいんだったら、あたしとやる？」
挑戦的に言い放つカリシャに、少年たちは目に見えてひるんだ。
「ちっ、祭司長の娘だと思ってつけあがるなよ！」
ブリュは捨て台詞を残すと、取り巻きたちを引き連れて去っていった。それを見送って、サウヴァは小さく息を吐き出す。
「ありがとう、カリシャ」
「まったく、ガキなんだから」
カリシャは憤然と言い放つ。同じ年の女の子が言ったとは思えない台詞だ。同じ勢いで今度はサウヴァに矛先が向けられた。
「あんたも男なんだから何とか言えばいいのに、サヴァ」
「そんなこと言ったって、あいつら、すぐに殴ってくるんだ」
「それくらい何よ」
カリシャは鼻息も荒く言う。
「殴られたら殴り返せばいいのよ」
「無茶言わないでよ。あいつら、力が強いんだからさ」
「だったら、捕まる前に避けて横っ面ひっぱたいたらいいのよ」
「そんなことできるのはカリシャだけだよ」
「やろうと思ったらできるわよ。あんたはやる前からできないって言うんだから」
サウヴァは納得できないように下唇を突き出して下を向いた。カリシャはそれを横目で見て、いかにも思い出したように手を叩いて言う。
「そうだ、忘れてた。用事があるから帰ってきてって」
「母さんが？ それを早く言ってよ」
「あんたを助けるのに時間がかかったからじゃないの」
「それじゃ行くよ」
サウヴァはカリシャに背を向けて駆け出した。
「あたしも行く」
声を上げて追ってくるカリシャの足音を聞きながら、サウヴァは家に向かった。
「母さん！」
勢いよく扉を開けて駆け込んだ途端、母の穏やかな叱責が飛んできた。
「サヴァ、静かにしなさい」
母は鍋の中に野菜を入れながらサウヴァに振り返った。サウヴァをサヴァと呼ぶのは母とカリシャだけだ。母はわかるが、どうしてカリシャがそう呼ぶのか、サウヴァにはわからない。一度訊いたことがあるが、その時は「どうして、そう呼んだらダメなのよ？」と聞き返されて答えられなかった。おかげで今もそのままだ。
「あの人は？」
息せき切って言う。後から入ってきたカリシャがサウヴァを物言いたげに見た。
「まだ眠っているわ。お母さんの診たところだと怪我はないようね」
「わかった」
「静かにね。カリシャ、ありがとう」
サウヴァに注意すると、母はカリシャに声をかける。
「いえ、いいんです」
サウヴァはふたりの会話を気にも留めずに父親の部屋に入っていった。
扉をそうっと開けて、部屋に入る。首を出してのぞき込む。
その瞬間、サウヴァは首根っこをつかまれて室内に連れ込まれていた。
「うっ……」
小さい悲鳴を上げたところで、自分がどうなったのか理解した。
壁際に潜んでいた何者かに片手で持ち上げられ、喉元にもう片方の手をあてがわれているのだ。いくら子供だとはいえ、母親でもサウヴァを持ち上げるのに両手が必要だ。
悲鳴なんか上げたら首を折られる。
そう感じたサウヴァは口をとざした。
「どうしたのよ？」
カリシャの問いかけに、サウヴァは喉が緩められたのを感じた。答えろというつもりだと気づいて、サウヴァは慌てて声を上げた。
「何でもない！」
言いながら、かかとで扉を蹴って閉める。
「おまえは？」
押し殺した声が尋ねた。その声は倒れていた女性の声だ。
「サウヴァ。覚えてない？ 声をかけたら倒れたんだけど……」
「そうか。あの時の子供だな。悪かった」
女性はちょっとかすれた声でそう言うと、サウヴァを床に降ろした。
サウヴァは喉をさすりながら、女性を見上げた。
まず目につくのは珍しい黒髪だ。しかも、それを男のように短く刈っている。今は真っ赤な長いコートを脱いでいた。正確には昨夜母が脱がしたのだ。今身にまとっているのは上下が一体になった濃い灰色の服で、胸や腰、足首に小さな小物入れのようなものがくっついていた。裸と同じように体の線が見えるため、サウヴァは胸の辺りにやった視線を思わずそらせてしまった。
「えっと、凄い力だね」
サウヴァは顔が赤くなっていないかと気にしながら、照れ隠しの代わりにそう言った。
その言葉を聞いて、女性はふっと自分の腕を見た。その目に一瞬何とも言えない色が浮かんだような気がして、サウヴァは理由もわからずに思わず謝っていた。
「ごめん」
「いい」
首を振りながら、女性はベッドの端に掛けてあった深紅のコートをつかんだ。
「ここはどこだ？」
「ヤンネの村だよ」
「荷はどうした？」
「あの大きな箱？ 入れられなかったから、家の外にあるよ」
「そうか」
上衣を持ち上げ、背中に回す。そこでかすかに顔をしかめたのをサウヴァは見逃さなかった。
「もう大丈夫なの？」
「世話をかけたな」
袖を通そうとしたところで、女性の体が前に泳いだ。壁に手を伸ばして倒れるのをかろうじて防ぐ。
「まだダメだよ！」
サウヴァは思わず声を上げて女性に駆け寄った。
「どうしたのよ？」
声を聞きつけて、扉の向こうからカリシャが声を掛け、すぐ後に母親が扉を開けて入ってきた。
「母さん」
母親は一目見て状況を察したのか、エプロンで手を拭きながら落ち着いた口調で諭すように言った。
「どんな事情があるのかわかりませんが、お体を元に戻してからお発ちになった方がよろしいですわ。無理をしては何も達成できませんのよ」
サウヴァの肩につかまっていた女性は、しばらく無言で考えていたが、やがて、難しい顔でぽつりと答えた。
「確かに、そうだな」
うなずくと女性は上衣をベッド脇に降ろし、腰を下ろした。
「サヴァ、お台所にお食事があるわ。持ってきて」
「はーい」
サウヴァは母親に応えて部屋から駆け出した。途中で思い出したように引き返し、顔だけ出して尋ねる。
「ねえ、名前は何ていうの？」
女性はちょっとためらった後、答えた。
「シルジア」
「変わった名前だね。どこから来たの？」
サウヴァの問いにシルジアと名乗った女性は天井を見上げて答えた。
「遠い……遠いところだ」
表情を見て、サウヴァは何となくそれ以上訊くのはマズいような気がした。あり得ないとは思ったが、今にも泣きそうな顔に見えたのだ。
「えっと、食べ物持ってくるね」
サウヴァはばつの悪い顔でそう言うと、台所に駆けていった。
２
シルジアの体調は翌日になると信じられないような速さで回復した。
立つとよろけるほど弱っていたというのに、走れるほどになっていたのだ。それだけではない。サウヴァと母のふたりでようやく数センチ動かせたあの荷物を、片手で担ぎ上げ、部屋に運んでいったのだ。
「凄い……」
サウヴァが目を丸くして感動した声を上げた。
「いや、コツがあるんだ」
言い訳がましく言うが、ひょいっと持ち上げたという感じでコツなんてあるようには見えない。まるで重量がないように感じられた。
「コレ、何が入ってるの？」
サウヴァが箱のような荷物を指さして訊くと、シルジアは苦い表情で答えた。
「知らない方が幸せな物ばかりだ」
気にはなる。が、サウヴァにはそれよりも気になることがあった。
「開けようなどと考えるな。危険だ」
なおも箱を見ているサウヴァに釘を差すようにシルジアが言う。が、サウヴァは首を振った。
「違うんだよ。ねえ、ボクもそんな力持ちになれるかな？」
「それはわからないが……」
シルジアはサウヴァを見下ろし、ようやく気づいた。サウヴァの唇が少しはれ、頬には青アザが浮かんでいる。
「誰にやられた？」
「ブリュって年上のでかいヤツがいてさ。すぐに手を出してくるんだ。だから力が強くなればって思ったんだ」
「それなら力がいらなくてケンカに勝てる方法を教えてやろう」
「ホントに!?」
サウヴァは弾かれたように顔を上げてシルジアを見た。
「助けてくれた礼だ。外に行こう」
そう言うと、シルジアは先に立って家の外に出ていった。
家の裏にある庭に立ったシルジアはコートを脱いで物干し竿に掛けると、両手が広げられる空間があるのを確かめていた。深紅のコートに陽光が降りそそいで光っているように見える。つくづく珍しい布だとサウヴァは思った。
「一番簡単な方法を教えよう」
シルジアは両足を肩幅に開いて、サウヴァに向かって軽く拳を握って構えてみせた。
「力がないなら早く動くことだ。だが、むやみに走り回ればいいという訳ではない。例えば相手がこう殴りかかってきたらどうする？」
シルジアはサウヴァの顔面にゆっくりと拳を突き出してきた。サウヴァは一瞬考えて後ろに下がって逃げようとした。
「そうじゃない」
シルジアはそう言いながらサウヴァの手をつかもうとして、思い直したようにサウヴァに向き直った。そして、すっと腰を落として低く構える。
「殴りかかってこい」
「え？」
いきなり言われて思わず聞き返すサウヴァ。
「本気でこい」
「う、うん」
戸惑って、それでもうなずく。しかし、一昨日は倒れていた女性に殴りかかるなんてできる訳がない。それにだいたいがサウヴァは人を殴ったことなどないのだ。
必然的に放ったパンチは力ないものになる。
シルジアは避ける素振りも見せずに平然と平手で拳を受け止めた。
「本気と言ったぞ」
「でもさぁ……」
「それでいじめっ子に勝つつもりか？」
「わかったよ！」
サウヴァはヤケになったような声を上げると、思いっきり右腕を引いて拳を突き出した。初めて振るった拳はシルジアの顔面に向かって伸びていった。
当たる！
サウヴァは思わず目を閉じようとした。
「え？」
一瞬、どうなったのかわからなかった。気がついた時にはシルジアは背後にいたのだ。まるでサウヴァの体がシルジアの真っ赤な服を通り抜けたようだ。
「魔法だ……」
「そうじゃない。まともに力を受けようとするな。流すんだ」
呆然と言うサウヴァにシルジアが教える。
「流すって？」
「こうだ」
シルジアはさっと身構えて、さっきと同じ動きを繰り返した。目の前から消えてしまったような気がしたのも当たり前だ。風を切る音が聞こえてくるほど素早い。
「凄い……」
サウヴァは呆然とシルジアの動きを見つめた。
「踊ってるみたいだ……」
確かに脚を踏み出し、体をひねり、腕を伸ばしする一連の動作はダンスと見えなくもない。いや、同じ動きを寸分の違いなく繰り返す様子はダンスの名手と言った感じさえする。
「これを覚えれば自然と体が動くようになる」
遥かな昔、套路と呼ばれた拳法の基本だとシルジアは言った。
「それでパンチを避けられるの？」
「それ以上のこともできる。慣れればな」
一瞬考えてから、サウヴァは答えた。
「やる」
「いい返事だ。それではまず、足の位置だ」
シルジアはそう言うとサウヴァに最初から教え始めた。
「こんなに、動いたの、初めてだ……」
息を切らせながら、サウヴァは草の上に寝転がった。
練習を始めた時は真上にあった太陽がいつの間にか東の方に傾いている。もうしばらくしたら夕食だ。
「いたた……」
足を踏ん張って腰を落とすという慣れない姿勢でいたために、いつも使っていない筋肉が悲鳴を上げている。
「大丈夫か？」
シルジアが背後から近づいてきた。
「体中が痛い……」
「続けていればそのうち痛くなくなる。肝心なのは続けることだ。そうすれば頭ではなく体が覚える」
「その前に痛くて動かなくなりそう……」
サウヴァは引きつりながら笑うと、隣に腰を下ろしたシルジアに声をかけた。
「よくこんなの覚えたね」
シルジアはどこか自虐的な笑みを浮かべた。
「覚えた訳じゃない。ほとんどプログラムだ」
「ぷろぐらむ？」
サウヴァは聞き慣れない言葉に聞き返した。
「いや、何でもない」
シルジアは苦笑して首を振った。
なんとなく居心地の悪い雰囲気ができてしまった。サウヴァは話題を変えた方がいいかなと、明るい声で訊いてみた。
「ねえ？ シルジアは何をしてるの？」
「旅をしている」
まるで旅をすることそのものが生活だと言うような口振りで、シルジアは空を仰いだ。
「どうして？」
サウヴァの問いに返ってくる答えはなかった。いや、答えたくても答えられないのかも知れない。シルジアの唇は固く結ばれたままだった。
「わかった。訊かないよ。言いたくないことは無理に訊くなって、父さんも言ってた」
「悪いな。父親は？」
「死んじゃった。三年前に隣村に行った時に嵐に巻き込まれたんだ」
「そうか……」
シルジアの反応にはまったく感情がなかった。単なる事実を聞いたというだけだ。
「あのベッドは父さんのだったんだ」
そう言いながら、サウヴァは大げさな声を上げた。
「びっくりしたよ。父さんと同じくらい大きいんだもん」
両手を広げるサウヴァを見て、シルジアはかすかな笑みを浮かべた。
「低重力下での生活が長かったからな」
「てーじゅうりょくか？」
またも聞き慣れない言葉にサウヴァが眉を寄せる。
「気にするな」
シルジアは言いながら、また苦笑いを浮かべた。
「そうか。遠くから来たから知らない言葉知ってるし、しゃべり方がヘンなんだね」
「おかしいか？」
「男の人みたいなしゃべり方だよ。カリシャも男っぽいけど、それとも違うし」
「そうか。ソフトが間違っていたんだな」
「そふとって？」
「つまり――そうだな、教えてくれたのが男だったんだ」
「ふうん。母さんがいなかったんだね」
サウヴァは納得したようにうなずいた。
「誰もいなかったさ」
聞こえないほど小さく口の中でつぶやき、シルジアはかすかに首を振った。
サウヴァはそれには気がつかなかった。それ以上に気を取られていることがあったのだ。
「ね、いつまでここにいるの？」
恐る恐る口に出す。
「わからない」
シルジアがそう答えると、サウヴァはいいことを思いついたというように目を輝かせた。
「ずっとここにいたら？」
「それはできない」
シルジアの返答は即座に返った。
「どうして？」
「やらなければいけないことがある」
そういうシルジアの目に一瞬、氷のような光が走った。だが、サウヴァにそれを感じ取る力はなかった。
「それじゃ、それが終わったらまた来てくれる？」
「そうだな。考えてみよう」
「きっとだよ」
シルジアはサウヴァの無邪気な願いにフッと笑みを浮かべた。
三日が過ぎた。
サウヴァはシルジアと套路の修行を続けていた。サウヴァにはシルジアがいつ出ていくのか不安を感じながらの修行だったが、幸い、彼女に別れを告げる様子はまだなかった。
あまり上達したとも思えないサウヴァだが、さすがに若いせいで疲労回復は早かった。二日目からはあちこちが痛いと泣き言を口にしなくなった。もっとも、覚えが早いというわけではない。
「ダメだね、ボク。なかなか覚えられないよ」
腰を落として、左足を前に出す。それと同時に右腕を下から伸ばしながら、左腕をグルッと回す。ひとつひとつの動きがバラバラで、バランスが崩れている。ダンスと言うよりも、下手な操り人形だ。
「わずか二、三日で覚えられるなら誰も苦労はしない」
シルジアはサウヴァの泣き言をたしなめた。
「それじゃどれくらいで覚えるの？」
「昔はひとつの套路に何カ月もかけたらしいな」
「ええ〜っ……」
サウヴァはうんざりした顔をして座り込んでしまった。シルジアはその胸に指を突きつけて軽くつついた。
「考えるな。感じろ。体で覚えるんだ」
「感じろっていってもなあ」
言いながらシルジアの胸に目をやって、サウヴァはシルジアのコートのように赤くなった。コートを脱いでいると、大きくはないが、胸の膨らみがはっきりと見える。その先端が少しとがっているのまで。
「さあ、もう一回」
シルジアはそんなことなど気づかずにサウヴァの背中を押す。
サウヴァはシルジアに顔を見せまいとして背中を向けて立ち上がった。そのまま、基本套路を繰り返し始めた。
「弱虫がなんかへなちょこダンスしてるぜ」
冷やかしの声が飛んできたのはすぐ後だった。
ブリュと取り巻きたちがやって来たのだ。
「ダンスじゃない」
サウヴァはムッとして言い返した。
「それじゃ何だ？」
「格闘技だ」
「何だと？」
「生意気にブリュさんに刃向かおうっていうんだな？」
腰巾着のヤニクがブリュの後ろから口を挟んだ。
シルジアが後ろにいるというのが支えになったのか、サウヴァは自分でも驚くような台詞を口走っていた。
「ブリュだって選ばれし者になれなかったんだ。ボクと同じじゃないか」
「なんだと、この！」
叫んでサウヴァに殴りかかろうとしたブリュにヤニクが耳打ちする。
「まずいですよ、今は」
ブリュはシルジアの方にちらっと目を走らせ、捨て台詞を吐いた。
「ちっ、覚えとけよ」
ブリュたちが去っていくと、シルジアが歩み寄ってきた。
「サウヴァ」
「サヴァでいいよ」
少し照れたようにサウヴァは応じた。
「サヴァって呼ぶのは母さんと、後カリシャだけなんだけど、シルジアもいいよ」
しかし、シルジアはうなずいただけで別のことを尋ねてきた。
「選ばれし者とは何だ？」
「凄い力を授かった人だよ。勇者って言う人もあるけどさ」
「勇者？」
シルジアは眉間にシワを寄せて聞き返した。
「うん。ドラゴンを倒したり、蛮族に攻められた町を救ったりしたんだって。凄いよね」
「選ばれし者というからには、何かに選ばれるんだな。何に選ばれる？」
「神様さ」
サウヴァはどうしてそんなこともわからないのかという顔で聞き返した。
「神？」
サウヴァの言葉にシルジアがこれまでより鋭い反応を見せた。
「うん。天からやってきた神様が資格のある子供に力を授けてくれるんだ」
「子供だけなのか？」
「ヤンネの村の子供は一〇歳になったら、ひとりで祠に行って一晩すごすんだ。神様が認めてくれたら勇者になれる力をくれるんだって」
「サヴァも行ったのか？」
「ダメだったけどね。いじめっ子のブリュもカリシャも行ったけど、ダメだった。二五年くらい選ばれし者は出てないらしいよ。もう一〇〇年も前から続いてるんだってさ」
「一〇〇年……。やはり、ここだったか」
どこか遠くを見るような目で、シルジアはつぶやいた。
「どうしたの？」
「これまで何人がその選ばれし者になった？」
「さあ……。でも、そんなに多くはないと思うよ。一〇人くらいじゃないかなぁ。カリシャなら知ってるよ。祭司長の娘だから詳しいんだ」
「一〇人……。手遅れか」
シルジアは難しい顔をして考え込んだ。
「カリシャに訊いてみる？」
「いや、いい。それより、その祠を見せてくれないか？」
「祠を!? だ、ダメだよ!!」
サウヴァは思わず声を上げて首を振った。村の外れに近いために、安全とは言い難い。それにばれた時に祭司長や母さんにどれくらい怒られるかわからない。それに四年前に怖い思いをしたのだ。また行きたくはない。
「どうして行きたいのさ？」
「ちょっと興味がある」
ちょっとどころじゃないのはサウヴァにもわかった。
「祭司長のお許しがないと誰も行けないんだよ」
「案内してくれ」
シルジアの目がサウヴァを真っ直ぐに見た。
「ボ、ボクが？」
「頼む」
シルジアに間近に迫られて、サウヴァは心臓が跳ね上がるのを感じた。
「でも……」
「お願いだ。やっと見つけた手がかりなんだ」
「て、手がかりって――」
「頼む！」
サウヴァが先を続ける間を与えず、シルジアが身を乗り出して肩をつかんできた。
「い、痛いよ！」
思いがけない力に、サウヴァは悲鳴を発した。しかし、シルジアの力は緩まない。
「案内してくれ」
言葉は丁寧だが、口調は命令に近くなっていた。
「わ、わかったよ。夜になったら案内してあげる」
これまで体験したことのない力に気おされて、サウヴァはうなずいていた。
「夜にならないと駄目なのか？」
「昼間は誰かが見てるし、祭司長がいるかもしれないし――」
「夜だな」
「うん」
「わかった」
言いながら、シルジアは何事もなかったように背中を向け、家に歩き去っていった。
ようやく肩を放されて、サウヴァは初めてシルジアを見たように怯えを含んだ目で見つめ続けた。
そう言えば、何も知らないのだ。どこで何をしていたのか。なぜ旅をしているのか。
噴き出す汗をぬぐおうとして、サウヴァは驚愕した。
つかまれた両肩は痺れて感覚がなくなり、動かそうとしても動かなかったのである。
３
夜になってこっそりと部屋を抜け出したサウヴァはいきなり声を掛けられて息をのんだ。
「行くぞ」
シルジアがすでに部屋の外で待っていたのだ。
いつもの深紅のコートの背中に何か背負い、左手には複雑な突起のついた棒状の物を持っている。
「それ、何？」
サウヴァは声を潜めて尋ねた。
「気にするな」
そっけなく答え、シルジアはサウヴァに先を促す。
さすがにサウヴァもこれ以上話しかけられるような雰囲気じゃないと気づいて口をつぐむ。誰かに声を聞きつけられるとマズいという思いもあった。
サウヴァが先導して真っ暗な夜道を進む。空は雲ひとつない晴れだが、ふたつの月も星も弱い明かりでしかない。
しばらく進むと民家がなくなった。もう大丈夫だろうと思った時、シルジアが口を開いた。
「祠のことを話してくれ」
「ボクもあんまり知らないけど、一〇〇年くらい前にガウラって人が天から落ちてきた神様を助けたんだって。それから神様の一部を祠に置いて、儀式を行うようになったんだ」
「神の一部？」
「うん。でも、ボクが入った時には何もなかったけどなぁ」
サウヴァは首をひねった。
「ホント言うと真っ暗だったから何も見えなかったんだけど」
笑いながら言うサウヴァにシルジアはさらに尋ねた。
「儀式とは？」
「何もしないよ。ただ祠の奥に行って、朝になるまでそこにいるだけ。肝試しみたいなもんだよ。ボクは怖くなかったけどさ」
シルジアは硬い声でそうかと返しただけだった。
その後は、サウヴァが道を見つけるのに意識を集中するようになったせいで、ふたりとも口を開かずに歩き続けた。
小高い丘を中腹まで登ったところで、サウヴァは道をそれて森に踏み入った。足元を見れば、確かに踏み固められた細い道があるのだが、昼間でなければわからない。めったに人が通らないのだろう。
「あそこだよ」
しばらく進んだところでサウヴァが前方を指さすと、シルジアはサウヴァを押しのけるようにして前に出た。
祠というのは人の背丈より頭ふたつ分くらい高く盛り上がった小山の下に開いた穴だった。その一帯だけ木や草がなく、人が手入れをしているのだとわかる程度だ。穴の両側に一抱えほどもある石が置かれ、そこにくくりつけられた飾り織りの紐が穴を守るように張り渡されている。
シルジアは黙ったまま先に立って進んでいく。持って来た棒のような物を構えて進む様子はこれまで見た姿とはまったく違う近寄りがたい雰囲気だ。
「ねえ、いったいどうしたの？」
「聞くな。聞いても無駄だ」
「どうしてさ？」
「理解できないからだ」
「子供だと思って――」
「そうじゃない。大人でも理解できない」
「それって――」
「これが理解できないのと同じだ」
言いながら、シルジアは左手をサウヴァに向けてかざした。
いきなり強烈な光がサウヴァの顔面を襲う。
「うわっ！」
サウヴァは驚きと恐怖で悲鳴一歩手前の声を上げてしまった。
「な、何!? 今のっ？」
「わからないだろう？ そういうことだ」
そう言うと、シルジアはさっさとひとりで祠の穴に飛び込んだ。
太陽を見た時のようにサウヴァの視界に黒い丸が焼きつけられている。
「ま、待ってよ。ボクも行く」
サウヴァは目をこすりながら慌てて後を追った。
穴はまず子供一人が立てるくらいの高さに縦に掘られ、そこから横に伸びていた。大人が腰をかがめないと入れないくらいの大きさだ。サウヴァでも腰をかがめないと頭がぶつかるくらいだ。
四年前は全然大丈夫だったのに。
そんなことを考える。これでも身長は伸びているのだ。
祠の中に入ると、先に進んでいたシルジアの持つ不思議な明かりのせいでかなり明るかった。ここまで来る道もあれを使えばもっと早く来られたのにと思ったが、誰かに見つかったかもしれない。だから使わなかったのだろう。
狭い入口から二〇歩くらい進んだところで、サウヴァの部屋くらいの広さになっていた。シルジアはその手前で何かに対して身構えていた。
「待て」
シルジアは声を上げると、腕を伸ばしてサウヴァを遮った。
「何かあるの？」
問いには答えず、シルジアはゆっくりと中に進んだ。
「やはりそうか」
シルジアがつぶやいた。その声は妙に抑揚がなく、込み上げて来るものを抑えているようだ。シルジアがかがみ込んだおかげでサウヴァにもシルジアが見ている物が見えた。
岩だ。
四年前に儀式で入った時、この岩に座って合図の鐘を待っていたのだ。ちょうどいい高さだったので覚えている。
確かに明かりの下で見ると、丸っこい岩が幾つも並んでいるのは不思議だが、洞窟でよくある形だ。別におかしな物ではないと思うが、シルジアの目は真剣だ。
「まだ時間がかかる？」
「ああ」
硬い声が返る。サウヴァは離れていた方がいいと考えた。
「ちょっと向こうを見てるよ」
「あまり離れるな」
シルジアはサウヴァの方を見ようともしないで答える。
「わかった」
サウヴァはつまらなさそうに口をとがらせて答えた。何かおもしろいことがあるのかと思ったら、シルジアは石を見ているだけだ。完全に自分のことなど頭から消えているので、しゃくに障ったのだ。
奥に進むとシルジアの明かりのせいで、ぼんやりとだが周囲が見える。
片手で手探りしながら、壁に沿って進む。緩やかに曲がっている洞窟をシルジアの姿が見えないところまでやってきた。
四年前に祠に入った時はここまで来られなかった。怖かったのだ。真っ暗で、光もないのにこんな奥までひとりで入ってこられるワケがない。
ふと、隅に視線が向いた。かすかな光で見ると、丸い岩がひとつ、転がっている。さっきシルジアが見ていた物と似た形だ。
「何なんだろ、これ？」
サウヴァは岩のような物に近づくと、じっくりと見た。
周囲の岩肌とは少し色合いが違うように思える。この岩の方が薄い。
表面を指でつついた後、手のひらで触れてみる。想像した感触と違って、思わず手を引っ込めてしまった。
さっきの岩のような硬く冷たい感じではなく、もう少し柔らかくて、しかも――。
「温かい？」
正確には冷たくなかったというところだ。普通、太陽や火に当たっていない限り、岩はひんやりとしているものだ。
恐る恐るもう一度手のひらを当ててみる。確かに温かい。しかも、次第に温度が上がっているような気がする。
シルジアに知らせた方がいいのかな？
そう思って立ち上がろうとして動きが凍りついた。
右手のひらが岩肌に吸いついたように離れないのだ。
「な、何だよ、これっ!?」
サウヴァは思わず声を上げていた。
「どうした？」
シルジアの声が返ってきたが、喉がふさがれたようにそれ以上声が出なくなっていた。
岩から手を引き剥がそうとする動きが緩慢に感じられる。それどころか意志に反して、勝手に体が岩を抱きかかえるように動いた。まるで、自分が操り人形になったような感じがする。
胸が岩に密着し、手と同じように離れなくなった。糊でくっつけられたようだ。
それと同時に異様な感覚が全身を駆けめぐった。
アリが肌の上を歩いているような、あるいは、噛んでいるような……。かゆいような、痛いような、そして、強烈な違和感。
何かが、体の中に入ってくる!?
そんな感覚がサウヴァを襲った。
「サヴァ!?」
シルジアの声が背後で聞こえたが、その時にはサウヴァの意識は薄れ始めていた。
「しまった！ まだ残っていたのか!!」
駆け寄るシルジアが、サウヴァの様子を見て悲鳴のような声を上げた。
「フュージョンが始まっている!?」
絶望的な響き。
何が起こっているのか、サウヴァにはまったくわからない。不安とシルジアが来てくれたという安堵がないまぜになった。
シルジアはサウヴァのアゴをつかみ、強引に首を反らせた。あらわになった喉をつかみ、力を加える。
え!?
薄れゆくサウヴァの視界に飛び込んできたのは、シルジアが振り上げた見たこともない形をしたナイフだった。
「もう間に合わない」
切先が自分の喉に向けられているのに気づき、サウヴァは声を絞り出した。
「ど、うし、て……」
一瞬、サウヴァは喉に加えられていた力が緩んだのを感じた。自分をつかむシルジアの腕が震えているのもわかった。
「くそっ！」
永遠とも思える時間が過ぎ、シルジアのいらだった叫び声と共に襲いかかった強烈な衝撃にサウヴァの意識は暗黒に飲み込まれていた。
シルジアは歯を食いしばりながら、気を失ったサウヴァを抱き上げ、祠を出た。そして、コートの下から拳大の球を取り出すと、振り返って祠に投げ入れた。
サウヴァを広場になった平地に置き、シルジアはそのまま背を向けて立ち去った。
シルジアの姿が消えた後、祠内部で閃光が光り、炎が噴き出した。そして、爆音と共に小山が崩れ落ちる。
すぐに深夜の村は騒然とした。
混乱の中、シルジアが見あたらないことに気づく者は誰もいなかった。
以下続く……